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<012> Web2.0の逆説 にリプライ 08_09_09_火_10_32 |
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null-001area ブログエントリーにリプライ |
http://d.hatena.ne.jp/sivad/20061214/p1
机に据え付けたパソコンの前でだけウェブをやっている人なんだろうな。
この文章自体ちょっと変なところがあるんだけど、まぁそれはそれとして。
モバイルをもってほぼ動きながらウェブに関わると行動する自分が主体となる。
そのとき、ウェブの情報なんてのはすべて行動する自分にぶらさがったものとなる、よ。
"つまり道具の進歩たる「Web2.0」は、
人間の対応をより表面的な印象に依存するように変えてしまうだろう。"
そんなことないよ。 目的のある行動、意図のある行動、あるいは作戦行動、そうゆう行動する
状況下で情報に接するのとそうでないのとでは全然違うから。
表面的な印象に依存していたのでは右にも左にも動けない。意図のある行動をし目的を必ず
達しようとするなら どんどん表面的な印象なんかをあてにしなくなる。そもそも行動するという
ことが前提であるなら300もの何か選択枝があるわけがない。
あんたの言ってることの方が真逆だ。
俺は言ってやりたい、モバイルガジェットをもって旅に出てみなよ、と。
その旅をどう表現し コンテンツ化し 読ませるもの(見させるもの聞かせるもの)とするか、
一度トライしてみるといい(帰って来てからやるのではなく旅に出ながらやる)。
ものすごく試されると思う。
行動することでより強く意識される "今このとき" という感覚、この感覚がリアルタイムでコンテンツ化
(情報化)され受け取られ(共有され)てこそウェブというもんだ。
ストックをマッシュアップすることで生成されたコンテンツなんてどうってことない。
011 |
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ツールとしての日本語 |
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いわゆる変体少女文字(大昔の丸文字とか、偏と旁がぱらっと離れているような字とか)は横書きに特化した字体だと言われていて、いいかげんそろそろ文体自体もそういうのが出てくるかと思ってたら、世の中が打ち込みベースに変わる方が早かった。
英単語混ぜ書きのようなアグレッシヴな実験はむしろ古い文豪なんかの頃の方が多かったんじゃないか。今はめんどくさかったり素敵な訳語をひねり出す時間がなかったりするからカタカナってのも多いし。そういえば洋画の題名もカタカナ丸出しが多い。
縦中横とかルビとか、ツールとしての日本語の使い方を限界まで追い込む昔の人の姿勢はすごかったんだなあと改めて思う。
特にPCは1行あたりの字数制限もゆるいし、行間(単に、組み方の)をあまりガチガチに決めてもわりと空しいことも多い。フォントの問題もあるし。
あーあと漢数字迷うわ。280馬力は280だけど百万馬力は100万、あ、別にそれほど違和感、んー?
日本語ってどうなっていくんだろう。
返信には遠い内容なので引用。 |
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今や、手書きの日記帳というのは積極的に選ばないとなかなか使う理由がない。なにもわざわざブログに書かなくても、エディタで書いてひっそりHDDに仕舞っておいたっていいんだし。
鉛筆を削る感触や間合いが好きだとか半券や落ち葉を挟んでおきたいとかあるなら話は違うけど。
Re: 羨ましいと思います。
その分、弱点もありましたよ。 |
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意外と疲れますし。
気がついたら見えていて気がついたら見えなくなっていたので、落胆は意外とないです。
見えなくなって思うのは、会話の一字一句を記憶する力は落ちたかもしれません。
自分が何か言葉を外に出す時も書くようにしかしゃべれないので、いや、逆か?しゃべるようにしか書けないので、例えばチャットをしても相手からすると印象は普段の実生活での会話と見事に一致したそうです。幅が出るよりは精度が高まる(ような気がする)だけな感じですね。それは今でも続いています。
あー、口頭ではカッコやテンテンは使いづらいか。
「『あれどこだっけ』って言ってたよ」
「あれどこだっけ、って言ってたよ」
「あれどこだっけって言ってたよ」
の差は口頭では極めて小さいです。
この文章は話題が話題なので多分に意識して表記も見返したりしながら打ってますが、実際お会いすることがもしあっても、おそらく、文法なども含めてほんとにこういう喋り方です。あとは抑揚だけで。
この倒置法っぽい後付けなんかも。
ただし、ここもそうだし最近はそういう場合がほとんどですが、手書きでない場は変換(書けない文字があっさり打ててしまう)や辞書や1字あたりの労力(画数が多いと単に面倒)の問題があるので文体はやはり多少は違ってきます。
それでもフォントいじりや特殊な記号・絵文字などはあまり多用したくはならないというか、見えたことがないので即座にはできません。
1行に収まる(数字程度の)いわゆる顔文字は一時期多少慣れたので、余裕がある時にふざけて手動で打ち込んだりはたまにやります~~~t( ^o^)。o ◎
Re: 少し違うかもしれないけれど
昔あった症状 |
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人と話をしている時に、その人の仮名遣いが漢字仮名混じり文で「見えた」。
映画の字幕や漫画の吹き出しのような感じで、どこにもないどこか別の平面に字が出ていた。句読点の位置は息継ぎに関係なかった。なぜか改行はなかったような感じ。
字体までは意識しなくて、プレーンテキストのデータそのものというか、どの文字かという情報だけが漠然と表示されていた。
例えば、つい「そんな思いっきりカタカナで笑わなくても」などと言ったら変な顔をされた。自分にとって「あはは」と「アハハ」は違っていたので。
インタビュー起こしの仕事とかすればよかったのかな。
同じこと(文章)をしゃべっていても人によって表記が微妙に違って面白かった。
今は見えないのでちょっと寂しい。
秀才の上 |
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「天才」と「名人」の二種類いると思う。
自分も含めた凡人が太刀打ちできないのはどちらも一緒で、すごいことには変わんないんだけど。
努力の天才、とか努力できるのは才能だ、とかって言い方あるけど、そういう職人肌のはあんまり天賦の才って感じがしない。できるまでやればできる、って言ってるだけなので、なんか「信じ続ければ夢は叶う」に似た感じがする。
天才は「(努力それ自体以外のことを)やると、できちゃう」というか、まぐれの確率が異常に有意に高いというか、そんなイメージ。
いわゆる才能って言われることのうちかなりの部分が方法論だってことは結構あって、そうじゃない部分。
「上手い」と「いい」の違いみたいなもの。
文化と文明の違いにちょっと似てるのかもしれない。